【公式】恵蘇八幡宮~朝倉地域の総社~

木の丸殿

木の丸殿

斉明天皇御殯葬の地

木の丸殿

木の丸殿

斉明天皇7年5月9日(661年6月14日)百済救援のため朝倉橘広庭宮に遷られた斉明天皇は、病気と長旅の疲労のため滞在わずか75日後の7月24日(8月27日)に御歳68歳で崩御されました。皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)は、御母である斉明天皇が崩御された7日後の8月1日(9月11日)に御遺骸を朝倉橘広庭宮からこの地にお移しになり、その夕べに朝倉山上(御陵山)に御殯葬されました。

そして、陵下の山腹(現在の八幡宮境内)に木皮のついたままの丸木の柱を立て忌み殿を建てました。板を敷き、芦の簾を掛け、苫をふき、あばらなる屋に、塊を枕にし、1日を1ヶ月にかえて12日間、母君の喪に服されたと伝えられています。そのことからこの地を「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになりました。現在、陵上には石柵が巡らされ、中央の塔石には「斉明帝藁葬地」と刻されています。

喪に服された皇太子は、

「朝倉や 木の丸殿に我居れば 名乗りをしつつ 行くは誰が子ぞ」『新古今和歌集』

と詠まれました。

また筑後川のほとりで名月を観賞され、心の痛みを癒されたと伝えられている「月見の石」が水神社境内にあります。

月見石

月見石

御陵山(恵蘇八幡宮1・2号墳)

朝倉橘広庭宮で崩御した斉明天皇を仮に葬った陵墓とする伝承が残される朝倉山は、御陵山とも称され、恵蘇八幡宮本殿裏の最高所にあります。「恵蘇八幡宮1・2号墳」として昭和45年8月1日に朝倉町文化財(現在は朝倉市文化財)に指定されています。

塔石「斉明帝藁葬地」

塔石「斉明帝藁葬地」

陵上には方二間(1.8m)の石柵が巡り、中央の塔石には「斉明帝藁葬地」と刻されています。測量も含めて詳しい調査は行なわれていませんが、円墳状の高まり2基分があり、採集された埴輪片から判断すると5世紀の古墳である可能性が高いと見られています。